‐30‐ した単元を構想した。身の回りのものを使って筆をつくったり,筆でいろいろな字や絵を書いたりしながら,液や道具を改良したり,友と考えや字の形やその字の様子を交流したり,遊んだりすることを通して,作り方や遊び方を工夫しながら筆遊びを楽しむことができるではないかと考えた。 3)『さいきょうのふでをつくりたい』と願うA児~しぜんと比較することのよさを見つけて~ 本時の授業において,自身の求めた活動ができなかった子どもは皆無であった。「自分が作る筆」として割り箸の先につけられた素材は,スポンジ,綿,毛糸,エノコログサ(猫じゃらし),花と多岐に亘る?その姿は,大きく捉えれば,まるで「『人類が“書く”』とはこのように発展してきた(我々の祖先はこのようにして筆を発明した)」との縮図を垣間見るかのようだった。本時を「領域」の段階における「遊び」の延長と捉えた際,このような展開も成立する。 その中で,黙々と自分の願う筆をつくろうとしていたA児がいた。A児は穂先をいろいろな素材で試しながら,自分のマイ水書用筆のような線,字に近づけようとしていた。そして,1本の割りばしの柄に対して,次々と素材をかえていくのではなく,1本の柄に対して,1種の素材をつけていった。そして,しぜんとA児は両手に自作の筆を2本持ち,じっとその筆を眺める姿がみられた。きっとA児は,穂先の長さや形状,さわり心地を確かめ,まさに素材に対して自分なりの視点をもち,比較をしているのだと教師は捉えた。 その後,A児は穂先にしたスポンジに切れ込みを入れたり,綿と毛糸を組み合わせたりしながら,目の前の素材をただ付けるのではなく,組み合わせたり,素材自体に工夫をする姿が見られるようになってきた。そんなA児に対して,教師はどんな筆を作りたいのか問うと,「さいきょうのふでをつくりたい」と自信気に答えた。その時,教師はA児の活動についてただ誉めるだけであった。 今振り返ると,A児にとって『さいきょうのふで』とはどんなものを考えていたのか。その具体について,A児自身なりの言葉で表出させる教師の出が必要だったと考える。また,その探究する課程のよさや困り感などについても教師が価値づけるチャンスであったと思う。子どもたちが筆自身を追求する姿勢は尊く,環境を整えて見守ることだけでなく,さらに教師がその瞬間の子どもの姿を捉え,その子の過去と未来を考え,問いかけ,価値付け,自覚させることが必要だと感じた。 4)「遊び」と「学び」の重なりにゆれる教師 本単元に関わらず,1年生の子どもたちにとって「やってみたい」との環境を整えることで,子どもたちが主体的にやってみたい,学びたいとの気持ちにあふれてくるだろう。そして,本単元を「領域」の段階における「遊び」の延長と捉えた際,いろいろな展開を構想することができるだろう。その中で,本時は「探究」のよさを生かした授業の展開例である。 一方で,本時は未だ「探究」の段階でとどまっており,この「学び」のゴール,すなわち「学習」としての目的が希薄となってしまった感も否めない。この活動の行き着く先にはどのようなねらいがあるのか。この活動における子どもたちのめあては何なのか。そもそも「筆となかよくなる」とはどういうことなのか。筆と仲良くなるとどんなことが起こるのか。筆と仲良くなってどうなりたいのか。つまり,この活動の先にはどのようなゴールが待っているのか。筆で何をするのかを見通したい。 改めて本時を振り返った時,本時の活動が文字に向かっていた子どもはどれだけいたのか。活動の先には常に「文字」とのゴールがあり,全てはそのゴールに向かっていく。多様な道筋があっていい。しかし,全てはゴールへ辿り着くための道筋である。道の先のゴールを見失わないことは必至となる。
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