書物で繙く登山の歴史2 -日本における江戸以前の山岳信仰- (2)
はじめに 1. 富士山登山の歴史と展開 2.「信仰の山」富士山を描く 関連資料
2.「信仰の山」富士山を描く
富士山の優美な姿は、葛飾北斎『富嶽三十六景』や歌川広重『東海道五十三次』などで、よく知られています。
一方で、信仰の山として富士山を描いた絵図も、多く残されています。
『富士山禅定図』
富士山が禅定(仏の世界)であることを、頂上八葉嶽や仏尊名によって明らかにした絵図。版元の大鏡坊は、興法寺の塔頭寺院であり、浅間神社を管理した。同寺刊行の『駿河国富士山絵図』には、本図を元に、周辺の名所(「左富士」「頼朝公御殿」など)や名物(「白酒」「ウナギノカバヤキ」など)も書き込まれている。
『富士山諸人参詣之図』
一雄国てる(歌川国輝?二代)画 江戸時代後期 《小谷コレクション》
白装束に笠を身につけた富士講の一行が、「諸人高山講」や「登山連」等の幟を持ち、富士登山をしている様子が描かれた錦絵。着物の背や笠には「砂糖」「味噌」「紙」「木綿」「米」「青物」といった文字が見られ、物価の上昇と下落を風刺しているとの説もある。杖を両手で突きながら、大砂走りを滑り降りる姿は、現代の下山風景にも通じる。
『富士山体内巡之図』
五雲亭貞秀(歌川貞秀)画 江戸時代後期 《小谷コレクション》
白装束にわらじ姿の富士講信者が、船津胎内樹型(富士河口湖町)で「胎内巡り(※1)」をする姿を描いた錦絵。富士の噴火による溶岩が樹林帯で固まり、樹が溶解した後の肋骨状の洞が特徴。「あばら骨」や、鍾乳石を思わせる「母のたいない」に安置された「阿弥陀如来」等の見所、「洞中ここよりせばまる」「わらじをひざにつけ」といった案内も見られる。
(※1)胎内巡り...体内めぐり、胎内くぐりとも。暗く狭い場所を通り抜けることによって穢れをはらい、新しく生まれ変わるという儀式。
黒い四角で囲んだ部分は、体内のあばら骨に見立てています。
『富士山北口女人登山之図 万延元年庚申六十一年目に当り』
一恵齋芳幾(歌川芳幾)画 江戸時代後期 《小谷コレクション》
下仙元宮境内にある「登山門」から、富士山を登拝する人々を描いた錦絵。万延元年の干支は庚申で、考安天皇92年の庚申年に富士山が出現したという縁起から、60年に一度の「縁年」とされる。立て看板に「四月より八月迄不限男女信心之輩可被登山参詣もの也」とあるように、登拝を志す女性の増加を受けて広く参詣が促された世相を映している。
立て看板の赤い四角で囲んだ部分に「不限男女」の文字が見られます。女人禁制の山が多い中、富士山は女性でも参詣することができたことがわかります。