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書物で繙く登山の歴史3 -日本近代登山の始まり- (2)

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2.日本山岳会の設立

日本の近代登山を牽引した日本山岳会の設立は、小島烏水を抜きにして語ることはできません。
明治35(1902)年、志賀重昂『日本風景論』に感銘した烏水は、友人の岡野金次郎とともに槍ヶ岳に登頂します。翌36(1903)年、再来日していたウェストンと出会い山岳会設立を勧められます。
烏水は以後、『太陽』?『中央公論』?『早稲田文学』などに紀行文を投稿し、地質?地理学者(神保小虎、佐藤伝蔵、山崎直方など)や、植物学?動物学を志す東京尋常中学校博物学同志会の学生たち(高野鷹蔵、武田久吉、山川黙、小熊捍?内田清之助など)と交流します。学者たちは講演や学会誌『地質学雑誌』で山岳会の設立を紹介するなど援助を惜しまず、学生たちは、山岳会の発起人7人のうち4人をしめました。
明治38(1905)年、日本山岳会(当初は山岳会)の設立を迎えます。当初の会員数は116名でしたが翌年には4倍に、以後も順調に増え続け、自然科学だけでなく様々な分野の人々が登山を楽しむようになっていきます。

山岳会設立に関わった人々

小島 烏水(こじま うすい)
小島烏水(写真)

明治6-昭和23(1873-1948)年

登山家、作家、浮世絵や西洋版画の188bet体育_188bet备用网址家。
日本山岳会初代会長。高松に生まれ、横浜で育った。横浜商法学校卒業後、横浜正金銀行に勤務するかたわら、文芸雑誌『文庫』の記者として文芸批評、山岳紀行を執筆し、年に2週間ほどの休暇は登山に費やした。日本山岳会設立以後も多くの紀行?山岳188bet体育_188bet备用网址?随想を残し、登山の普及に貢献した。

(写真所蔵:信州大学附属図書館)

Walter Weston
Walter Weston(写真)

1861-1940年

イギリス国教会宣教師、登山家、地理学者。
日本山岳会名誉会員。明治21(1888)年に来日し、浅間山?富士山?北アルプスの紀行文を収めた『日本アルプスの登山と探検』を著した。明治35(1902)年の来日時に小島烏水の訪問を受け、山岳会の設立を勧めた。44(1911)年に来日した際、ウェストンの講演には600人を超える人々が集まり、その功績を讃えたという。

(写真:ウエストン碑(上高地)レリーフ)

武田 久吉(たけだ ひさよし)
武田久吉(写真)

明治16-昭和47(1883-1972)年

植物学者、登山家?北海道大学講師、京都大学講師。
日本山岳会第6代会長?父親は、イギリス駐日公使であり、『明治日本旅行案内』の著者であるアーネスト?サトウ (1843-1929)?東京尋常中学校時代に、雑誌『太陽』に掲載された小島烏水の「甲斐の白峰」を読んだことから知己となり、日本山岳会設立の際には発起人の一人となった。

(写真提供:公益社団法人 日本山岳会)

山岳会設立の主旨書(『山岳』第1号)

『山岳』第1号 扉

明治39(1906)年

山岳会設立の主旨書 山岳会設立の主旨書4頁 山岳会設立の主旨書3頁 山岳会設立の主旨書2頁 山岳会設立の主旨書1頁

※各ページの部分をクリックすると、ページごとに拡大表示します。

日本山岳会の設立時に配布された主旨書。
機関誌『山岳』第1号巻頭に掲載される。ヨーロッパでは、アルプスが科学、文学、芸術など諸学の188bet体育_188bet备用网址の中心となり、山岳会の設立によって道路整備や地図?ガイドの出版が進み、老若男女が登山を楽しんでいる。日本でも山岳会の設立により、登山の気風を広めていくことを高らかに宣言している。

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『日本アルプス』

『日本アルプス』

小島烏水著 明治43-大正4(1910-1915)年

日本における近代登山創成期の名著。
第1巻には南アルプス白峰山脈、第2巻には富士と北アルプス、第3巻には穂高?槍ヶ岳と万年雪の究明などを綴り、第4巻には、山に関する評論?随想をおさめる。全編を通して、著者の登山と文芸への熱い思いがほとばしる。本書は多くの読者を獲得し、近代登山発展の礎となった。

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各巻の装丁
『日本アルプス』1巻扉 『日本アルプス』2巻扉 『日本アルプス』3巻扉 『日本アルプス』4巻扉
『日本アルプス』2巻見返し

写真左上から1巻~4巻の扉、2巻見返し。
著者の登山と文芸への熱い思いは、こだわりの装丁からも窺える。

『疑問の「鎗ヶ岳日記」』

『疑問の「鎗ヶ岳日記」』

小島烏水著 大正時代

小島烏水の直筆原稿。出版及び掲載は不詳。
文政年間(1818-1829)に刊行が予定された幻の書『鎗ヶ岳日記』について考察し、出版されていれば槍ヶ岳を主題にした最古の文献となった書の未刊を惜しんでいる。本原稿の中で、槍ヶ岳を「日本アルプスの王者」と評すなど、烏水の槍ヶ岳に対する思い入れの深さを随所にのぞかせている。

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『日本山嶽志』

『日本山嶽志』

高頭式編 明治39(1906)年

1,400頁に及ぶ、日本初の山岳百科辞書。
登山術?山岳諸説?日本地質構造概論?日本山岳志?山岳噴火年表?山岳表の7編よりなり、引用される文献は140点を数える。
自費出版(3,000部)であったが、多くの登山家たちに必読の書と愛された。
高頭式(1878-1958)は新潟県の豪農。日本山岳会の運営を経済的に支えた。日本山岳会2代会長。

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『日本風景論』

『日本山嶽志』

志賀重昴著 明治27(1894)年

日本風土の美しさを自然地理学的見地から説明した書。槍ヶ岳をはじめとする山々のガイドブックも兼ねている。
志賀重昴(1863-1927)は地理学者。日本山岳会名誉会員。
本書の初版は3週間で売り切れ、15版を重ねるベストセラーとなった。日本の近代登山におけるバイブル的存在であり、小島烏水をはじめとして、後代に多大な影響を及ぼした。

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志村 烏嶺(しむら うれい)

志村烏嶺(写真)

明治7-昭和36(1874-1961)年

教職者、高山植物188bet体育_188bet备用网址家、写真家、登山家。本名は志村寛。
三好學の影響を受け、長野中学(長野県)在職中に、飯縄、戸隠、浅間山、八ヶ岳、白馬岳、槍ヶ岳、乗鞍岳などに登り、高山植物の188bet体育_188bet备用网址、植物と山岳の写真撮影を行った。日本山岳会との関わりも深く、ヨーロッパに初紹介された日本アルプスの写真も志村撮影のものである。

(写真所蔵:信州大学附属図書館)

小谷コレクションに掲載されている志村烏嶺撮影の写真

「信州白馬嶽腹の大雪田」
「信州白馬嶽腹の大雪田」

出典 『日本山水論』 小島烏水著 / 明治38(1905)年

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「白馬嶽ノ絶嶺及ビ大残雪」
「白馬嶽ノ絶嶺及ビ大残雪」

出典 『日本山嶽誌』 高頭式編 / 明治39(1906)年

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「白馬山腹の大雪渓」
「白馬山腹の大雪渓」

出典 『山岳』1号 明治39(1906)年

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「白馬嶽御花畑」
「白馬嶽御花畑」

出典 『やま』 志村烏嶺、前田曙山著 / 明治40(1907)年

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『富士山スケッチ』

『富士山スケッチ』『登嶽日記』

杉浦非水著 明治41(1908)年

富士山麓周辺のスケッチ集。
杉浦非水(1876-1965)はグラフィックデザイナー。東京美術学校日本画選科に入学するが、黒田清輝の指導を受け図案家に転向。アール?ヌーヴォーの作品に魅せられ、商業美術の第一人者として日本のグラフィックデザインの礎を築いた。
本書には、非水自身が記した 『登嶽日記』が付されている。

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『日本アルプスへ』

『日本アルプスへ』

窪田空穂著 大正5(1916)年

大正2(1913)年、島々から徳本峠を越え上高地に入り、槍ヶ岳と焼岳に到る紀行文。
窪田空穂(1877-1967)は、歌人、国文学者。朝日歌壇選者、早稲田大学教授。与謝野鉄幹、高村光太郎、国木田独歩などと交流を持った。本紀行で達成できなかった槍ヶ岳登頂は11(1922)年に高村光太郎たちと達成し、『日本アルプス縦走記』にまとめられた。

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