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書物で繙く登山の歴史3 -日本近代登山の始まり- (3)

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3.登山と教育

新しい教育制度において、登山は心身鍛練、地理動植物学上の見学?採取、軍事教練などを目的として実施されました。
学校登山の早い例としては、明治35(1902)年、長野高等女学校(長野県)の戸隠山登山、38(1905)年、東京府第一高等女学校(東京都)?42(1909)年、大宮尋常高等小学校(静岡県)の富士山登山などが確認できます。大正2(1913)年には、小学校?高等女学校?中学校?師範学校における体操を包括的に規定した『学校体操教授要目』に、授業時間外の運動として「登山」が盛り込まれました。
ただし、登山を指導できる教師が不足していたこと、登山道などの整備が充分でなかったことなど問題は山積しており、『山岳』3号(明治39(1906)年)には、明石女子師範学校の富士登山について監督者の責任が追及されています。このような状況のなかで、木曽駒ヶ岳大量遭難事故(大正2(1913)年)、福島県女子師範学校遭難事故(大正14(1925)年)などが起きてしまいました。

『学校体操教授要目:文部省制定』

『学校体操教授要目:文部省制定』

開発社編 大正2(1913)年

出典:国立国会図書館デジタルコレクション

https://dl.ndl.go.jp/pid/919403

新しい教育制度における登山の位置づけが窺える記述箇所 『学校体操教授要目:文部省制定』新しい教育制度における登山の位置づけがうかがえる記述箇所

「富士登山と明石女子師範学校職員の責任」(『山岳』3号)

城數馬著 明治39(1906)年

「富士登山と明石女子師範学校職員の責任」 151頁 152-153頁 154-155頁 156-157頁 158頁

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「富士登山と明石女子師範學校職員の責任」(p.151-158)には、以下の副題が含まれる。この登山に関する新聞記事を引用したうえで筆者の見解が述べられている。
「女學生登山の失敗(監督者たる校長の無責任)(八月十三日)」(p.153)
「女學生登山の摻况(再び監督者の無責任に就て)」(p.154-158)

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木曽駒ヶ岳大量遭難事故 遭難記念碑

木曽駒ヶ岳大量遭難事故 遭難記念碑

大正3(1915)年除幕

出典:『中箕輪尋常高等小学校の駒ケ岳遭難 : 平成24年度特別展』 箕輪町郷土博物館編 / 2012年

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『富士唱歌』

『富士唱歌』表紙 『富士唱歌』

大和田建樹作詞 上真行作曲 明治35(1902)年

大和田建樹(1857-1910)は詩人?
上真行(1851-1937)は雅楽師、チェロ奏者?
2人は「鉄道唱歌」(1?2集)にも関わった?19番まで歌詞があり、富士山の姿を皇国と重ね合わせ、忍耐や勇敢さなど登山に必要な精神が歌われる。序にも「自ら堅忍邁往の意気お鼓舞し、又忠君愛国の志操お涵養し国民教育の一助たらしめん」と記され、教育と登山の関係が窺える。

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『聖職の碑』

『聖職の碑』

新田次郎著 昭和51(1976)年

大正2(1913)年8月、台風による悪天候により、中箕輪高等小学校の校長、生徒25名を含む38名が遭難し、11名が死亡した木曽駒ヶ岳大量遭難事故を題材にした小説。原作では50ページに及ぶ「取材記」が付され、執筆に際して綿密な調査を行ったことが窺える。
事故の背景に当時の長野県教育界内の対立を見ることについては異論もある。

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