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   「開学式典写真集」より

   「開学式典写真集」より

 信州大学は、昭和24年5月31日交付の国立学校設置法にもとづき、文理?教育?医?工学?農学?繊維の6学部からなる新制の国立大学として、6月1日より発足しました。このとき、前身校のひとつである松本医科大学の地(松本市大字桐)に大学の本部が新設されました。現在の松本キャンパスです。 開学記念式典は、大学組織も整った翌昭和25年10月30日に盛大に執り行われました(写真1、2)。このとき、式典は、教育学部松本分校講堂(現信州大学附属松本小学校?中学校講堂)(写真3)、祝賀会は同場所及び医学部の建物など3会場にて、講演会は文理学部講堂(旧制松本高等学校講堂)で行われています。(参照:大学史資料センター企画展「信州大学誕生」Web版) ここでちょっとした疑問?  なぜ、式典が教育学部松本分校の講堂で執り行われたのでしょうか。 理由については不明ですが、当時の周辺地図(図1)から、信州大学に統合される教育学部の松本分校が本部と道を隔てて隣にあることがわかります。そして、本部が置かれた医学部の建物配置図(図2)を見ると、式典会場として使える講堂のような建物が見当たらないことから、すぐ隣にあった分校の講堂が会場になったと想像できます(図3)。このとき、式典の来賓および関係者は1,000人余りで、席の後ろには立見の人が大勢いるほどでした。(出典『学窓そして三十年』(引用元信州大学新聞教育学部本校版

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理学部A棟前(南東側)のメタセコイヤの木

理学部A棟前(南東側)のメタセコイヤの木

 大学史資料センター第6回企画展「野尻湖発掘を支えた信州大学の人びと」の関連情報をご紹介します。 野尻湖発掘では第6次発掘(1975年3月25日~3月31日)のあと、全国各地に「野尻湖友の会」が組織されました。 第5次発掘に参加した人たちが、発掘の感激と成果を伝える行事を全国各地で計画し実行しました。そして、地域ごとに組織をつくり学習会などを行うようになったことが友の会のもととなりました。当時の野尻湖発掘への熱い想いが伝わります。 長野県内では、東北信野尻湖友の会と中南信野尻湖友の会がつくられました。中南信野尻湖友の会は、信大理学部地質学188bet体育_188bet备用网址室に事務局が置かれました。友の会の結成1周年を記念して植えられたのがメタセコイヤの木です*。理学部A棟の南東側にあり、当時は2メートルくらいの高さだったものが今では屋上(最上階は6階)を超えるまでに成長しています。 このメタセコイヤの木は、野尻湖発掘のあゆみとともに成長してきたのですね。*野尻湖発掘調査団,増補版「象のいた湖」,新日本出版社,1992,p.225. <関連リンク>大学史資料センター第6回企画展「野尻湖発掘を支えた信州大学の人びと」のご案内

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       感謝状

       感謝状

2005ねん すぺしゃるおりんぴっくす とうきせかいたいかい かんしゃじょう?きねんひん (感謝状)資料の年代:2005(平成17)年3月24日 品質形状:297mm x 210mm (アルミ製額:320mm x 242mm)(記念品) 資料の年代:2005(平成17)年 品質形状:ケース:970mm x 110mm x 20mm     金銀銅ピンバッジ:34mm x 30mm     ロゴピンバッジ:10mm x 950mm スペシャルオリンピックスとは、知的障害者の社会参加と自立支援を目的としたスポーツの祭典です。世界大会は4年おき、これまで夏季は16回、冬季は11回開かれており、今年は6月17日~25日の間、ドイツのベルリンで第16回大会が開催されました。2005年の長野冬季大会は、日本で行われた唯一の世界大会で、84の国と地域から1829人のアスリートが参加し、日本選手団も150名が参加しました。  このとき、信州大学の学生がボランティア活動に参加するほか、ボランティア参加とリポート提出を優先して単位を認める授業が開講されました。また、工学部情報工学科では、参加アスリートの家族登録のための専用システムの開発とデータの取りまとめを行い大会をサポートしました。  これらの協力に対し、本学に感謝状と記念品のピンバッジが贈られました。これらの資料は、学務部学生支援課に保管されてい

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 2022年度秋季企画展「明治?大正期 信濃博物学の夜明けと長野県師範学校-矢澤米三郎とライチョウ標本を中心に-」でご紹介した矢澤米三郎は、「日本の植物学の父」といわれる牧野富太郎とも交流がありました。  1918(大正7)年1月、牧野富太郎は矢澤米三郎に対し、高山地帯に生息する多年草?タカネマンテマの標本を持っていたらいただけないかと相談しました。  (Web展示:「明治?大正期 信濃博物学の夜明けと長野県師範学校-矢澤米三郎とライチョウ標本を中心に-」p.70より)  これを受けて、矢澤が、自身の教え子であり、日本における最初のタカネマンテマ採集者でもある岡田邦松を紹介したと見られます。  ほどなく牧野から岡田へ、標本借用と、牧野による解説文執筆の許諾を求める書簡が届きました。    はがき  牧野富太郎から岡田邦松へ  1918(大正7)年1月16日 諏訪市博物館 蔵 御ハガキ拝見仕候、然れば彼のタカネマンテマ誠ニ 申兼ね候へども、其標品一週間位御貸与被下 間敷、私用すみ候へば早速御返上申上べく 候、実ハ其記載文を発表致し度それ故 其標品を見度と存候、御許容被下候へば至急の書留 小包便ニて御送附相願度、用スミ次第又書 留小包便にて御返送申上べく候、右御許し被下候へば 大幸の至に存候、右御相談申上候   一月十六日 (訳) お葉書拝見しました そんなわけでかのタカネマンテマ誠に

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