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  合格電報「コマクサハホホエム」

  合格電報「コマクサハホホエム」

ごうかくでんぽう「こまくさはほほえむ」卒業生資料 (人文学部)日本電信電話公社 資料の年代:1967(昭和42)年3月31日 品質形状:211mmx125mm 信州大学の入学試験に合格したことを伝えた電報です。  合格を示す慣用句としては「サクラサク」が一般的ですが、信州大学では「コマクサハホホエム」が使われました。この合格電報は大学から公式に出されたものではなく、申し込み手続きは学生アルバイトが請け負っていました。「ウナ」と書かれているのは、当時「ウナ電」と呼ばれていた至急電報のことです。ちなみに、不合格は「シナノジハユキフカシ」でした。  コマクサはピンク色の可憐な花を咲かせる高山植物で、信州大学の学章のモチーフにもなっています。       コマクサ<関連リンク> 信州大学 学章?シンボルマークコマクサ関連記事(信大NOW 124号)

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    入学許可通知書と封筒

    入学許可通知書と封筒

にゅうがくきょかつうち(うえださんしせんもんがっこう)卒業生資料 (上田蚕糸専門学校)作者:上田蚕糸専門学校 資料の年代:1935(昭和10)年4月4日 品質形状:和紙(279mmx210mm)、封筒(220mm x 90mm) 山寺孝(やまでら たか)さんに対し、繊維学部の前身校である上田蚕糸専門学校が同校教婦養成科への入学を許可し、入学式への出席を求めたものです。通知には、入学式当日は袴を着用し上履きと昼食を持参するように書かれています。  教婦とは、今でいう技術者のことで、より上級の技術者のもとで現場を管理し、女工さんたちを監督する存在でした。  長女だった孝さんは、手に職をつけて一家を支えようと、上田蚕糸専門学校の予科を修了したのち、同校製糸教婦養成科へ入学します。同科を卒業後は片倉製糸に就職し、高崎で女工さんたちと同じ環境で生活を送りました。
(左)冬期野猿調査報告書<中間> (右)冬期野猿調査報告書 第2号

(左)冬期野猿調査報告書<中間> (右)冬期野猿調査報告書 第2号

とうきやえんちょうさほうこくしょ卒業生資料 (農学部)【左】冬期野猿調査報告書<中間> 1974.2.1~2.24    編集:信州大学農学部 野外生物188bet体育_188bet备用网址会 野猿分科会(7名)    資料の年代:1974(昭和49)年    品質形状:普通紙(表?裏表紙)、藁半紙、27頁、B5判【右】冬期野猿調査報告書 第2号    編集:信州大学農学部 野外生物188bet体育_188bet备用网址会 野猿分科会(8名)    資料の年代:1976(昭和51)年6月1日発行    品質形状:藁半紙、27頁、B5判   農学部野外生物188bet体育_188bet备用网址会の野猿分科会による調査報告書です。  会員の学生たちは「野猿群の行動と森林植生の関連」を調査するため、上伊那郡辰野町の横川渓谷で初めてニホンザルの冬期調査を行いました。期間中は数人ずつ交替で入下山し、猿たちが食べた樹皮や糞を手掛かりに行動を追い続けました。報告書には、毎日の観察記録と調査結果、考察や反省などがまとめられています。  調査期間中は冬用のテントを設置して過ごしましたが、狭いうえに雨でびしょ濡れになるなど苦労しました。 <関連リンク> 「信州大学農学部 野外生物188bet体育_188bet备用网址会会報 第二号」(1971)(信州大学附属図書館OPAC)世界初?サル類の魚食行動の決定的瞬間が撮影される、 世界最寒地(上高地)のサル集団における魚食行動

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『わらぢ』左から1927年?1941年?1946年

『わらぢ』左から1927年?1941年?1946年

わらぢ (まつもとこうとうがっこうさんがくぶほう)卒業生資料 (教育学部)わらぢ 1927 【左】 編集兼発行人:三原清 発行所:松本高等学校山岳部 資料の年代:1927(昭和2)年5月10日発行 品質形状:コットン紙、120頁、230mm x 160mm x 14mm  わらぢ 第6号 2600*【中央】編集兼発行人:濱口朝彦 発行所:松本高等学校校友会山岳部 資料の年代:1941(昭和16)年1月30日発行 品質形状:上質紙、186頁、230mm x 160mm x 18mm  わらぢ 1946【右】編集兼発行人:栗林 発行所:松本高等学校山岳部 資料の年代:1946(昭和21)年発行 品質形状:藁半紙、52頁、207mm x 152mm x 4mm 『わらぢ』は、人文?経法?理学部の前身校である松本高等学校の山岳部報です。  山岳部は、松高が開校した翌年の大正9年1月の校友会発足と同時に創部となり、大正10年10月に山岳雑誌『草鞋』を創刊しています。創刊号は、当時の部長が矢澤米三郎講師(松本女子師範学校長?信濃山岳会長)であったこともあり、松高山岳部員と信濃山岳会員の有志の集まりでつくった「原人社」という組織が発行し、第2号から『わらぢ』として第4号まで続きます。  その後しばらく休刊し、松本高等学校山岳部が復活の第1号(1927年)を発行します。その後は断続的に1946(昭

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